kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第444回 2022.6/5

百人一首No.22. 文屋康秀(ふんやのやすひで):吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ

秋の山を吹き降りる風、その風が吹くやいなや草も木も枯れてしまう。ああなるほど、だから山の風を嵐というんだなあ。

N君:「からに」は複合の接続助詞で「~するとすぐに」の意だそうです。「むべ」はちょっと昔の言い方で「むべなるかな」というのを聞いたことがあり「なるほどそうだろうね」の意であることを知っていました。

As soon as a chilly gust blows down from the mountains, autumn plants wither away.  Now I see why mountain's wind is called a storm.

S先生:wither「萎れる」ですが wither away にすると「萎れてしまう」という感じが出ますね。plant は草花のみならず木も含んでいます。mountain's wind はいけません。原則として無生物の名詞には所有格を使わないようにしましょう。ここは a mountain wind にしましょう。例外的に時間・重さ・価格・距離を表す名詞は所有格にしてもよいです。たとえば、a ten minutes' walk,  a pound's weight,  a dollar's worth of tea,  a hundred meters' distance のような例を挙げることができます。また慣用句で、for ,,,'s sake 「~の利益のために、~の目的で」の形で、for mercy's sake,  for safety's sake のような用例があります。

Autumn leaves wither away as soon as cold mountain winds blow down.  May they well be called storm.  

N君:S先生の第2文は May で始まっており祈願文のように見えますが、、、。

S先生:may well「~するのももっともだ」の意味を強調する目的で倒置してみました。その結果 May が文頭に来て祈願文のように見えた、というわけです。ちょっとややこしかったですかね。

MP氏:The mountain wind has just to blow and the leaves and grasses of autumn wither and die.  That must be why the character for 'storm' also means 'destroyer' !

N君:辞書で調べたところ、have just to do は「~するより仕方がない」「どうしても~してしまう」の意のようです。character は「文字」。文末の destroyer という発想には驚きましたが、よくよく考えてみるとなるほどそうなります。

K先輩:文屋は文室とも書きます。したがって嵯峨天皇陸奥に派遣した文室綿麻呂文屋康秀の御先祖かもしれません。康秀は下級貴族で、最高位が六位だったので、殿上には上がったことがありません。地方に派遣されて役人をやっていたのでしょう。律令では役人の位について四等官が敷かれていました。中央の省組織では偉い順に「卿(きょう)・輔(すけ)・丞(じょう)・録」であり、大宰府では「帥(そち)・弐・監・典」、国では「守・介・掾(じょう)・目(さかん)」です。たとえば三河国では「県知事=守、副知事=介、収入役=掾、部長級=目」といったところです。康秀は三河国掾であったから愛知県のナンバースリーくらいでしょう。康秀に関してどうしても触れておかなければならないことは「No.9小野小町との関係」です。康秀が掾として三河国へ赴任する時に、こともあろうに絶世の美女小野小町に「僕と一緒に行きませんか?」と誘ったらしいのです。二人とも後の世で六歌仙と呼ばれるほどの歌詠みでしたから、お互い気心は知れていたのかもしれません。バンドにたとえてみると、ベースのお兄さんが、キーボードの綺麗なお姉さんに恋のモーションをかけたということになるでしょう。ちなみにこのバンドのボーカルは誰が何といってもNo.17在原業平です。No.8喜撰法師がギターで、No.12僧正遍照がドラム、大伴黒主はミキサーというところでしょう。誘いを受けた小野小町は康秀に「最近いろいろあって疲れちゃったわ、身も落ちぶれて根無し草のようになっちゃってるし、あなたからの誘いの水に乗って、どこへなりともついて行っちゃおうかしら」などと返事をしており、まんざらでもないのです。実際この後二人がどうなったのかは分かりませんが、康秀も頑張ったものですね。そんな康秀ですが、905古今集仮名序の中でニヒルな男No.35紀貫之にこっぴどく批評されていて、「商人が綺麗な着物を着たような歌い振り」だそうです。貫之は仮名序の中で「最近の若者はけしからん」「ものを見る時は上辺だけではなくてちゃんと中身を見よう」という趣旨のことも述べています。昨今の軽佻浮薄ぶりを嘆き、昔は良かった凄かったと遠い目をするオジサンは、現代にも居ますよね。時代は絶えず動き、価値観も変わります。その変化についていけなくなったオジサンは昔も今もいるのですね。

ところで「バンド六歌仙」のボーカルを在原業平としたのは彼が二枚目だからです。日本史上のハンサム男は誰か? というテーマでちょっと考えてみましょう。まず第1に光源氏ですがこの人は実在の人物ではなく、モデルとなったのがNo.14河原左大臣源融(みなもとのとおる)だと言われています。嵯峨天皇の息子で、鴨川西岸の五~六条あたりに広大な河原院を設け風雅を楽しんだことで有名です。第2はNo.17在原業平です。彼のモテモテぶりについては第438回・第439回にも話しました。第3はNo.86西行法師=佐藤義清(のりきよ)でしょう。白河上皇が創設した北面の武士として採用されるには、家柄がキチンとしていることのほかに眉目秀麗であることという条件があり、若き佐藤義清や平清盛はこの条件をクリアしていたそうです。佐藤義清には、白河上皇祇園女御の養女として育てられた待賢門院璋子(たまこ)や、その侍女であったNo.80堀河との浮名があります。第4は江戸時代初めの頃の公家猪熊教利(いのくまのりとし)です。ハンサムすぎて彼の髪型や帯結びが「猪熊様(いのくまよう)」などと呼ばれてもてはやされたそうです。朝廷の女官どもとの乱行が過ぎて1609に後陽成天皇の勅勘をこうむり死罪となりました。この事件が1615禁中並公家諸法度の制定に影響を与えたと言われています。第5は幕末で、新撰組鬼の副長土方歳三(ひじかたとしぞう)を挙げたい。今でいうところの東京都日野市の豪農の息子だった彼は武士に憧れて新選組に入りました。京都ではモテモテで、このことを自慢げに手紙に書いて故郷に送っています。1969=明治2年に函館五稜郭で撮った写真は映画スターのブロマイドのよう。これは研究者の方から伺った話ですが、令和の現在、日野にお住いの玄孫の女性は凄い美人だそうです。第6は昭和の戦前に首相を務めた近衛文麿です。1937=昭和12年から1941=昭和16年に3回にわたって内閣総理大臣として組閣しています。藤原家の歴史は日本の歴史であり、この藤原家が九条・二条・一条・近衛などの家に分かれたわけで、言うなれば近衛文麿藤原鎌足の子孫です。昭和12年に彼が初めて内閣総理大臣になった理由は「背が高くて見栄えが良いから」だったらしい。私のような歴史オタクからみると「もうちょっと頑張って米英との戦争を回避する方向に力を注いで欲しかった」と思います。「やさ男 金と力はなかりけり」ですね。敗戦後の昭和20年末にピストル自殺しました。自殺するくらいなら、昭和16年に蛮勇をふるって戦争回避のために働いて欲しかった。もし彼がそのような戦争回避行動をとったとしたら、おそらく彼は軍部に暗殺されていたでしょうが、それくらいの覚悟をもって総理大臣をやって欲しかったです。番外編としてあと二人挙げておきます。一人は鎌倉時代はじめの洛北高山寺明恵上人(みょうえしょうにん)。その高潔とハンサムさは臨済宗栄西も認める逸材でした。端正すぎる我が身に傷をつけようとして明恵は右耳介先端を切った、と言われています。源平合戦承久の乱で夫を失って出家した尼僧たちを保護して、おそらくは彼女たちの崇敬を集めていたと考えられます。もう一人は伝説の中の人物で、鎌倉時代頃の紀州道成寺を舞台にした安珍清姫伝説の美坊主安珍です。旅の修行僧安珍に一目ぼれした清姫に「熊野参詣の帰りに必ずまた寄るから」と約束した安珍でしたが、その約束を破って逃げようとしたために怒った清姫が蛇になって追いかけてきます。道成寺の梵鐘を降ろしてもらいその中に隠れた安珍でしたが蛇は梵鐘に巻き付いて火を噴き、安珍は蒸し焼きになってしまいました。ハンサムすぎるのも考えものですね。

1941=昭和16年 日米開戦:ハルノート行くはよいよい真珠湾