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文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第442回 2022.6/3

百人一首No.20. 元良親王(もとよししんのう):わびぬれば今はた同じ難波なる みおつくしても逢はむとぞ思ふ

どうすれば良いのか、行き詰まってしまったのだから今となってはもう同じことだ。難波潟にある澪標(みおつくし)ではないが、身を尽くしても彼女に逢おうと思う。

N君:なんだか切羽詰まった感じの恋の歌だということは分かります。

Now that I have been locked in a stalement, I'll dare to meet her by any means.

S先生:Now that「今や~なので」はここではピッタリの接続詞でした。by any means は「どんな手を使ってでも」という感じが出ています。

Our illicit love having been disclosed, I never mind being inundated like the watermarks at Naniwa if I can meet her.

N君:illicit「不法な」、inundate「水浸しにする」。前半は独立分子構文になってますね。君に逢えるなら水浸しになっても構わない、とは情熱的です。澪標にひっかけて inundate が使われており、これはオシャレです。

S先生:inundate はちょっとしゃれてみました。私の作文の前半部分にあたる分詞構文の having been は省略してもよいでしょう。

MP氏:Like Naniwa's channel markers whose mame means 'self-sacrifice,' I, too, would give my life just to see you once again.

N君:MP氏の作品も情熱的な仕上がりになっていて感心しました。「身を尽くす」は self-sacrifice なのですね。なるほどそうかと思いました。sacrifice「犠牲」。

K先輩天皇の息子を親王、娘を内親王といいます。天皇の孫のうち男の子をーー王といいます。たとえば天武天皇の息子に高市皇子(たけちのみこ)=高市親王という方が居て、その息子が長屋王です。本歌の作者元良親王はNo.13陽成天皇の息子です。宇多天皇の寵愛厚き京極御息所(みやすどころ)を密かに慕った元良親王でしたが、二人の不義密通が広まってしまいました。第441回にも指摘しましたが、現在の感覚からは考えられない大スキャンダルです。こんなことがもし今起こったら、週刊誌の取材合戦が過熱してパパラッチも現れて大騒ぎになることは必定。昔はおおらかだったのでしょう。「道ならぬ恋は王朝文化の華」なんて言う人もいますが、いくらなんでも乱れすぎでしょう。租庸調を支払っている庶民からしたら「いい加減にしろ!!」という感じです。ところがこの歌を読むと、不倫が露見しただけでは済まなかったことが分かります。困った元良親王が「もうどうにでもなれ」という気になって、この歌を京極御息所へ届けたのです。普通はほとぼりが冷めるまで行動を起こさずにジッとしているべきなのに、親王は御息所へこの歌を贈ったのです。自暴自棄ですよね。火に油を注ぐ行為だと思います。若くて情熱的だったのでしょう。歌を受け取った御息所も、天皇の手前困ったことでしょう。御息所は実際、親王に逢ったのかどうかが気になるところですが、それは不明です。でも、たぶん逢ったのでしょうね。前回も今回も日本史の勉強そっちのけでスキャンダルの話ばかりしていますが、この手の話を面白がることが歴史や古典の勉強をする上で思いがけない近道になる、ということを私はN君に力説しておきます。下世話な話ばかりでもいけないので少しは勉強の話もしましょうか。この歌が「二句切れ」であることに気付いたでしょうか? 「わびぬれば今はた同じ」で一旦切れて、「難波なるみおつくしても、、、」となっているのです。ついつい「同じ難波」と考えてしまうのですがそれは誤りです。何故そういえるのでしょうか? 形容詞「同じ」は終止形であり、難波という名詞を連体修飾するのであれば「同じき難波」あるいは「同じかる難波」でなければなりません。現代語では終止形も連体形も「同じ」なのですが、古文では終止形「同じ」に対して連体形「同じき」「同じかる」となっているのです。このことを理解した上でもう一度訳文を読んでみて下さい。「、、、もう同じだ。難波潟にある、、、」となっていて、きれいに二句切れが表現されています。もうひとつ「澪標(みおつくし)」について触れておきましょう。澪標というのは舟の安全航行のために水中に立てられた木の標識です。難波潟の河口付近は浅瀬が多いため澪標がないと舟が座礁してしまうのです。そこで、浅瀬と、水深の深い澪(みお=安全航行域)との境に棒を立てて水先案内としたのです。この澪標が「身を尽くし」と同音であるために、雅な掛詞として恋の歌に多用されたというわけです。澪標のマークは、江戸の町火消し達が使った纏(まとい)のような形をしており、それがシンボル化されて、今では大阪市の市章になっています。645蘇我入鹿の首を刎ねた年が明けた646正月に、中大兄のおじ孝徳天皇が難波長柄豊崎宮で改新の詔(みことのり)を読み上げた時に、眼下の難波潟には既に澪標が何本か打ち込まれていたでしょう。

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