kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第438回 2022.5/30

百人一首No.16. 中納言行平(ゆきひら):たち別れ因幡の山の峰に生(お)ふる まつとし聞かば今帰り来(こ)

別れて因幡の国へ去ったとしても、因幡の稲羽山の峰に生えている松ではないが、あなたが待っていると聞いたならばすぐに都へ帰ってこよう。

N君:「まつ」は「松」と「待つ」の掛詞なのですね。最近分かってきました。

Even though I must bid farewell to you and set off for Inaba, I am inclined to come back here to Kyoto like the pine trees on Mt. Inaba when I hear you waiting for me.

S先生:だいたい良いのですが be inclined to do 「~したい気がする」はもっと強く want to do くらいにしてもよいと思います。

Even if I part from you, I will soon come back to you if you pine for me like the pine trees on the ridge of Mt. Inaba.

N君:pine は「松」という名詞のほかに「待つ」という動詞もあるのですね。スゴイ偶然があったものです。この pine によって一気にオシャレ度がアップしました。以下に示したMP氏の作品にも pine for が登場しています。

MP氏:Though I may leave for Mt. Inaba, famous for the pines covering its peak, if I hear you pine for me I'll come straight home to you.

K先輩:平城(へいぜい)天皇の孫の世代が皇籍を離れる時に「在原(ありわら)」という姓を賜ったのです。天武天皇清原氏桓武天皇平氏清和天皇ー源氏、などと同じです。1975=昭和50年ころ、歴史小説の大家司馬遼太郎先生は「日本人は5代遡ればたいがい皆親戚どうしだ」と言いました。5代=150年として1825頃であり、江戸幕府が日本近海を航行する外国船に対して無二念打ち払い令を出した頃です。その頃の日本の人口は約2000万人で今の1/6ですね。1825頃に既に親戚どうしなのですから、平安時代初期は推して知るべし、当然親戚どうしだったでしょう。単一民族たる日本人の系譜を遡れば結局は天皇家に繋がっていくのですから、「うちの御先祖はーー天皇や」なんて自慢してもそれは自慢になっていないのです。だって皆そうなのだから。在原と言えば業平(なりひら、No.17)です。美男でプレイボーイの弟業平。その兄として行平は誠実かつ真面目にふるまっていました。在原氏専用の学問所として奨学院を設立しています。弘仁貞観期には各貴族が自分ところ専用の塾みたいな施設(大学別曹)を次々と建てました。藤原氏勧学院橘氏の学館院、和気氏の弘文院があります。二条の駅から御池通りを東へ歩いていくと左側に小さな石柱があって「弘文院跡」と書かれています。ついでながら、それを通り過ぎてもう少し歩くとチロルという名の喫茶店があります。朝8時からやっていてフードメニューが充実しています。全部美味しいですが特に卵サンドやカツカレーがおすすめです。さて奨学院には在原氏だけでなく皇族がたの子弟も通っていたようで、在原氏天皇家は良好な関係にあったのでしょう。行平の誠実かつ温厚な人柄もおおいに影響したのでしょう。行平は有能な行政官で、天皇家ともうまくやっており、842承和の変に見られるような良房の他氏排斥運動にも巻き込まれず、政界を上手に泳いでいたものと思われます。根無し草のように東国へフラフラと旅に出るような弟業平の尻ぬぐいみたいなこともやったでしょう。もしかしたら業平は、なんでもそつなくこなす兄行平に嫉妬していたのかもしれません。伊勢物語東下りに書かれているように、業平は、「昔、男(業平のこと)ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めに、とて行きけり」というような行動を取ったのかもしれません。「えうなし」とは「要無し」つまり「役に立たない」の意です。一族全体のことことを優先して堅実に生きた兄行平、己の美学を優先して無頼に生きた弟業平、の対比が面白いですね。第435回に兄弟は性格が正反対だという話をしましたが、ここにも具体例がありました。伊勢物語は各段が「昔男ありけり」で始まりますが、この昔男というのは業平のことです。その一節に面白い話があったので紹介しておきます。業平が東国へ放浪の旅へ出た時の話。ある晩のこと、川原で野宿していたら、どこからともなく「眼がいたい、眼がいたい」と女の泣く声が聞こえる。朝になってその方角を探してみたところ、女の髑髏(しゃれこうべ)がころがっていて、その眼窩を通して地面からススキが生えていたのです。業平はススキを取り除いてやり髑髏をねんごろに弔ってやったところ、女の霊が表れて礼を言って消えた、という話でした。さすがはプレイボーイ業平、死んだ女にももてるとは恐れ入りました、と感心しました。ところが、です。私が百万遍(京大のすぐ近く)の古本屋で「日本霊異記」の単行本を買って下宿で読んでいたら、その中に髑髏+ススキ の話が出ていたのです。日本霊異記はおそらく850頃に僧景戒が我が国の怪奇譚を集めて漢文で書いたもの。伊勢物語は作者不明ですがおそらく900頃の成立で、仮名で書かれています。伊勢物語の作者は当然日本霊異記を読んでいたと考えられ、それをパクッて伊勢物語用に脚色したものと思われます。そういえば日本昔話などで「小僧さんが山婆(やまんば)から逃げながら御札を投げると、それが山になったり川になったりして山婆の追撃をかわすことができました」などというストーリー展開があって、私は子供時代にドキドキしながら読んだものですが、これも実は古事記のパクリだったのです。イザナギが、死んだイザナミを探しに黄泉(よみ)の国へ行った時、イザナミが化け物になってイザナギを追いかけてくる、という怖い話があります。この時イザナギは耳飾りや腕輪や剣を投げて時間稼ぎをしながら、とうとうこの世まで逃げおおせるのでした。私が言いたいのは「よく出来た話には必ず元ネタがある」という事です。日本史上にもいろいろな名場面があり、後世の人たちが脚色して語り継いでいるのですが、よくよく調べてみると、うそ・大げさだったり、そもそも中国やインドの話だったりするのです。