kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第435回 2022.5/27

百人一首No.13. 陽成院(ようぜいいん):筑波嶺(つくばね)の峰より落つる男女川(みなのがは) 恋ぞつもりて淵(ふち)となりぬる

筑波の峰から激しく流れ落ちる男女川が次第に水量を増して深い淵となるように、私の恋も積もり積もって淵のように深くなってしまった。

N君平安時代のはじめに京都に住んでいる人が茨城県の山とか川の名前を認識していたことにまず驚きます。

The Minano River, flowing down from Mt. Tsukuba's ridge, has made deep pools.  Just like that, my heart adoring her has piled up to make a deep love.

S先生:「ちょうどAが~するようにBも~した」という構文は、As A ~, so B ~. という形でしたから、私の作文ではそうしてみました。この形は英作文するときに多用する便利な形なので是非覚えて使ってみて下さい。As の前に Just を加えてもよいです。さてN君の作文の最後のところに「結果の不定詞」が登場しており適切に使うことができました。あとで出てくるMP氏の作文にも同じような使い方が出ていますね。ところで「不定詞」という呼び方に疑問を抱いたことはありませんか ? am, are, is, was, were のように時制・人称・単数複数によって語形変化した動詞を「定動詞」と呼ぶのに対して、それらによって未だ語形が決まっていない動詞を「不定詞」と呼んでいるのです。まず定動詞があり、それにつられて便宜的に不定詞という呼び方をしていたら、いつの間にやら不定詞のほうが有名になってしまった、という感じでしょう。山や川の名前には必ず定冠詞を付けるよう注意しておいて下さい。

As the River Minano flowing down from the ridge of Mt. Tsukuba makes deep pools, so my love for her has become profound.

MP氏:Like the Minano River surging from the peak of Mt.Tsukuba, my love cascades to make deep pools below the falls.

K先輩陽成天皇が譲位して陽成上皇すなわち陽成院になったわけですが、この人はどうもおかしいのです。8歳くらいで即位したのはよい(父清和天皇も9歳で即位)としても、譲位が15歳というのはいくらなんでも早すぎるでしょう。病気のために早めに譲位したことになっているが、そのわりには80歳くらいまで長生きして、周りの人たちから陰口をたたかれていたらしい。天皇として何らかの不適当な振る舞いがあって、基経が譲位を促し、その結果五十がらみの光孝天皇が即位したと見るべきでしょう。いったい何があったのでしょうか。「乳母子(めのとご)撲殺事件」が関与しているらしい。陽成天皇の乳母がいて、その実の息子が乳母子で、陽成天皇から見れば兄弟みたいなものですが、この乳母子がある日宮中で撲殺されて、下手人は不明。その事件の直後に陽成天皇は譲位しているので、まだ15歳の彼がこの事件に何らかの関わりを持っていると考えるのが自然です。事の真相は不明ですが、とにかく若くして上皇となった陽成院は気楽な身分となり、このような歌を作り「釣殿の皇女=綏氏(すいし)内親王」に贈って二人は夫婦になりました。陽成院が恋にうつつをぬかしている頃、政情は急を告げていました。基経は888「宇多天皇即位詔書撤回事件=阿衡の紛議」を通して関白の座を不動のものとしたのですが、このために宇多天皇から嫌われて菅原道真登用を招くこととなり、900頃に藤原政権は一時的な危機を迎えていたのです。645大化の改新 以来、鎌足不比等~北家房前~~~冬嗣~良房~基経 と続いてきた藤原摂関家の栄光を存続させるため、時平・忠平兄弟は権謀術数をめぐらしたことでしょう。宇多天皇退位の後に即位した醍醐天皇のもとで901昌泰の変(道真左遷事件)につながっていきました。右大臣道真を太宰府権帥(ごんのそち)に左遷したのですから時平は寝覚めが悪かったでしょうね。罪滅ぼしに北野天満宮に道真を祀ったのは有名な話です。時平は生涯左大臣にとどまって摂政・関白にはなりませんでしたが、ここにも時平の贖罪の気持ちが表れているのではないでしょうか。弟の忠平はしっかり摂政となり関白にもなってます。いつの時代も兄弟の性格は正反対です。たとえば足利尊氏・直義(ただよし)の兄弟も性格が大きく異なっていました。尊氏は時代の奸雄みたいなところがあって機を見るに敏な男でしたが、直義は実直で曲がったことの嫌いな男だったようです。直義は尊氏の執事高師直(こうのもろなお)と喧嘩してそれが1350観応の擾応(かんのうのじょうらん)につながっていきました。つまりは、南北朝でもめているのに北朝内部でさらなる揉め事が起こったということです。江戸時代のはじめでは真田信之・信繁(幸村)の兄弟でしょう。兄信之は実直で、家康に従い初代の信州松代藩主になっています。弟幸村は家康に敵対して1615大阪夏の陣で戦死して「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と呼ばれました。少し下がって、徳川2代将軍秀忠の御台所(みだいどころ)江(ごう、信長妹お市の方三女)の長男家光と次男駿河大納言忠長も性格が真反対でした。春日局に育てられた家光は厳しくやや神経質な男に育ちましたが、江が直接育てた忠長はひよわなお坊ちゃんになりました。些細なことで家臣を手打ちにしたりして行動に問題があった忠長は、家光の命令で切腹させられました。このことが家光亡き後の1651慶安の変(由井正雪の乱)につながっていきます。ちなみに恐妻家秀忠は江に内緒でもう一人男子をもうけており、それが性格温厚・実直・優秀な初代会津藩保科正之(ほしなまさゆき)でした。彼は家光の息子4代将軍家綱を補佐して、それまでの武断政治文治政治に転換させていったのです。慶安の変より前は「いまだ浪人や傾奇者(かぶきもの)が跋扈する物騒な世相」であったのが、1615大坂夏の陣や1637島原の乱を経た後に今また1651由井正雪が死んで、「優しい世相」になったと言えます。なにしろそれまでは「殉死」という習慣が残っていたのですからスゴイですよね。主君が亡くなったら家臣のおもだった者も切腹する、というのですから家臣としてはたまったものではありません。末期養子(まつごようし)も認められました。それまでは、子のない藩主が亡くなったらその藩は即改易(かいえき=おとりつぶし)だったのですが、藩主が死の床で世継ぎを指名してもOKということになったのです。浪人の増加を防ぎ、世相を柔らかくするのに一役買いました。戦国時代の気合の入り方というのは尋常ではありませんね。殉死で思い出しましたが、1912=明治45年=大正元年明治天皇大喪の日に乃木希典(のぎまれすけ)陸軍大将・静子夫人が殉死しています。1904~1905日露戦争における旅順郊外203高地で多くの将兵を失った乃木は以前から死を覚悟していただろうと拝察しますが、静子夫人はどうだったでしょうか。直前まで芝居見物に行くつもりだったのに、突然乃木から殉死を告げられ、乃木と供に自刃しました。明治の人も気合の入り方が違います。「命惜しむな名をこそ惜しめ」ということなのでしょう。私はこのような行為を盲目的に賞賛する者ではありませんが、1945太平洋戦争末期の神風特攻隊のようなことは、日本歴史の中で連綿と醸成されてきたある種の特異な価値観のもとでのみ発生しうるものだと思います。大伴家持作詞「海ゆかば」の中にある『海ゆかば水漬(みづ)く屍(かばね) 山ゆかば草蒸す屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ かへり見はせじ』を実践していて、日本という国に特有の考え方です。日本人としてこのことを大切に考えていきたいと思います。そのためにも歴史を広く深く学ぶ必要があります。

1651:色恋を捨てた正雪慶安の変