kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第429回 2022.5/21

百人一首No.7. 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ):天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも

大空を振り仰いで遥か遠くを眺めると、今見ている月は奈良の春日にある三笠山の上に出ていた月と同じ月なのだなあ。

N君:スケールの大きな素晴らしい歌ですね。助動詞「なり」には二種類あって、一つは終止形接続の伝聞推定「なり」です。その有名な例文は土佐日記の書き出し部分で、「男もすなる日記というものを」です。もう一つは連体形および体言に接続する断定「なり」で、竹取物語冒頭部分に「その中に三寸ばかりなる人ありけり」という例文があります。後者の特殊形として「存在を表す”なり”」があります。本歌の「春日なる三笠山」は、春日という土地にある三笠山、という意味になります。試験によく出るポイントとしては、断定「なり」の連用形に「に」の形があって、これの鑑別が大変です。「異心ありてかかるやあらむ(伊勢物語・井筒)」の「に」は「断定なり連用形」なので要注意です。似たものとして「こなたはあらはや侍らむ(源氏物語・若紫)」がありますが、これは形容動詞「あらはなり」連用形の活用語尾にすぎません。「に」の直前がどういう品詞の語なのかを考える必要があります。完了助動詞「ぬ」は連用形接続ですが、「ぬ」自体の連用形も「に」となっており、「舟こぞりて泣きけり(伊勢物語・九段)」の「に」は完了「ぬ」連用形「に」です。結局、「かかる」は連体形、「あらは」は形容動詞語幹、「泣き」は連用形、ということです。このほかにも「に」には格助詞や接続助詞もあるので、ものすごく厄介ですが、ここはマスターせざるを得ません。

Looking up the sky here in China, I see the beautiful moon my folk are admiring above the Mt. Mikasa in Nara, my hometown.

S先生:だいたい良いのですが少し言うことがあります。冒頭の Looking up の後に at を置いて下さい。beautiful moon の後に接触節がくっついてこの月は特定の月だから、という理由でおそらくN君は定冠詞を付けたのでしょう。その考え方は正しいのですが、beautiful のような形容詞がくっつくと定冠詞が不定冠詞に変わることが多いのです。まったく厄介な話で困りますが、ここは a beautiful moon+接触節 という形になります。またMt. Mikasa に定冠詞は不要です。文末の hometown を見て思い出したことがあります。hometown は確かに一語なのですが、home village は二語なのです。変ですが昔からそうなのです。それからN君の作文に「春日」が出てこなかったのはちょっとだけ減点の対象になるでしょう。

Looking up at the sky here in Tang, I see the moon rising in the east.  Ah, it's the same moon shining above Mt. Mikasa at Kasuga.

MP氏:When I look up into the vast sky tonight, is it the same moon that I saw rising from behind Mt. Mikasa at Kasuga Shrine all those years ago ?

N君:MP氏の作品で、moon には that 以下の目的格関係代名詞がついていて、形容詞same もくっついています。same は不定冠詞よりも定冠詞を好むので the same moon that ~ となったのでしょうね。

S先生:実は私も明快な説明ができないのですが、そのように考えてもらってよいと思います。それから一つ注意しておきたいことがあります。三笠の山の上に出た月を表現する前置詞は on, over, above のどれが良いのか、という問題です。まず on は「接触」を表すので不適でしょう。月が山にくっついていたら地球最後の日になってしまいますからね。There is a glass on the table.  There is a picture on the wall.  There is a fly on the ceiling.  のように、接触していさえすれば上下横に関係なく on を使えます。次は over ですが、これは「~の上に」というよりも「~にかぶさって」の意を持っており、She wore a coat over her dress.  There is a bridge over the river.  のように使います。over Mt. Mikasa としても一応ギリギリセーフでしょう。最後に above には「~より高く、~より上に」の意がありますから、above Mt. Mikasa とするのが無難でしょう。なお対語は、over ⇔ under,  above ⇔ below です。There is a cat under the table.  The lamp hangs below the ceiling.

 

K先輩仲麻呂というと藤原仲麻呂(764恵美押勝の乱)と混同しそうになるのですが、阿倍仲麻呂はそれよりももう少し前に遣唐使として唐に渡りました。722百万町歩開墾、723三世一身の法 などの新しい方針を長屋王が打ち出していた頃のことでした。藤原四兄弟の陰謀conspiracy によって729長屋王が自殺した頃、日本を代表する頭脳の持ち主であった阿倍仲麻呂・藤原清河は、政情急を告げる日本をあとにして唐へ向かいました。出発する直前に春日神社に参拝して旅の無事を祈ったそうです。仲麻呂は頭が良いだけではなく性格温厚で誰からも好かれ、盛唐の玄宗皇帝(長恨歌に登場)にも可愛がられたそうです。仲麻呂・清河と一緒に入唐(にっとう)した僧玄昉・吉備真備は、無事日本へ帰って国博士(くにつはかせ)として重用されました。仲麻呂・清河も帰国しようとしたのですが、台風に遭って船がベトナム方面へ流されてしまいました。その後も何度かそういうことがあって、ついに日本の土を踏むことができなかったのです。帰国船が出る前の晩に、唐の詩人・官人たちが二人のために送別会(むまのはなむけ)を開いてくれました。皆が漢詩を作る中で、仲麻呂は「日本には和歌というものがある」と言ってこの歌を詠み、これを中国語に訳して披露したところ皆涙を流して感動したという話が伝わっています。その送別の宴の中に唐を代表する二人の詩人が居ました。一人は王維、もう一人は李白。王維は「元二の長安に使いするを送る」という漢詩で有名です。中高生の皆さんも一度くらい耳にしたことがあると思います。「渭城の朝雨軽塵を潤す 客舎青々柳色新たなり 君に勧む更に尽くせ一杯の酒 西のかた陽関を出づれば故人無からん」。最後のところの「故人」は「ともだち」くらいの意味です。もう一人の李白杜甫と並び称される大詩人で詩仙と呼ばれていました。仲麻呂とは同年齢で酒好きでした。仲麻呂の乗った船が難破したことを知った李白は、仲麻呂が死んだと早合点して「晃卿衡(仲麻呂唐名)を哭す」という題名の七言絶句を残しています。「日本の晃衡帝都を辞し 征帆一片蓬壺をめぐる 明月碧海に帰らずして沈み 白雲愁色蒼梧に満つ」。

仲麻呂つながりで藤原仲麻呂についても少し触れておきましょう。前回話に出た聖武天皇光明皇后の一人娘が孝謙天皇(重祚して称徳天皇)だったわけですが、叔母であった光明皇太后がなくなってから、後ろ盾を失った仲麻呂は退けられてしまいました。在職中は天皇のおぼえもめでたくて「恵美押勝」という名を賜ったり、藤原鎌足以来の大職冠という称号を賜ったりしてイケイケドンドンだったのに、いまや道鏡のいいようにされて不満がたまり、ついに764に反乱を起こしました。敗れて琵琶湖西岸を北へ逃げる途中で斬殺されたらしい。矢が当たって死んだという話もあります。そこが具体的にどこなのか私はまだ知らず、何回かドライブの途中で立ち寄ろうとしたのですが、まだ実現していません。矢が当たって死んだといえば以仁王を思い出します。1180源三位頼政以仁王の令旨(りょうじ)を受けて平家打倒の兵を挙げて失敗した時、頼政自身は宇治の平等院で自害したのですが、以仁王はさらに南へ逃げようとして、現在の京都府井出町というところで流れ矢に当たって死んだそうです。私はなにか別の用事でこのあたりを通っていて、偶然小さな踏切の傍らにある小さな神社の境内に以仁王のお墓を見つけて、思わず車を降りて手を合わせました。この場所のすぐ西に低い山があって、そこに橘諸兄(たちばなのもろえ)のお墓があるとのことだったのですが、そこにはまだ行けておりません。

764:名無視広虫押勝の乱。

道鏡恵美押勝という名誉ある名を無視して藤原仲麻呂を追い落とした上に、宇佐神宮神託事件で対立した和気清麻呂の姉=法均尼=広虫 の名を狭虫に変えさせたりして、まったくひどい坊主でした。ただし最近「道鏡を守る会」という団体ができて、道鏡の濡れ衣を晴らそうと活動しているそうです。現代の世の中にしみついてしまった「道鏡=悪者」というコンセンサスを覆すのは容易ではないでしょう。一方の広虫光明皇后が始めた悲田院(孤児や貧民の救済施設)を手伝ったりして、立派な優しい女性だったようです。京都駅の南東に泉涌寺(せんにゅうじ)という名の素晴らしいお寺があります。雰囲気のある長い参道の右手に悲田院跡がありました。奈良平城京光明皇后広虫が始めた救済施設が、ここ平安京でも引き継がれていたのですね。