kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第425回 2022.5/17

百人一首No.3. 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ):あしびきの山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜をひとり

山鳥の尾のその垂れ下がった尾ではないが、そういう長々しい秋の夜を私は独りで寝ることになるのかなあ。

N君:上の句がひとまとめで序詞(じょことば)となり次の「長々し夜」をひっぱりだしているので、意味を取る上では上の句をすっ飛ばしてもOKなのでしょう。その序詞のなかに枕詞「あしびきの」があって「山」を引き出しています。授業などで聞いたことのある係り結びがこの歌にも登場していますが、僕は全く気付きませんでした。「係助詞か+推量助動詞む連体形む」が係り結びです。係り結びというのは文章を強調する働きを持っています。歌全体を見渡すと、秋の夜長を独りで過ごす男の侘しさを歌っているわけですが、決して深刻な感じはなくて、やるせなさの中でおどけた自虐の歌と考えることもできます。

Shall I have to lie in bed alone in this long autumn night like Yamadori's long tail hanging down to the ground ? 

S先生:前半の副詞句 in this long autumn night では前置詞in は不要です。このように前置詞なしで副詞句の働きをする句を文法的には副詞的目的格 adverbial objective と呼んでおり、通常は名詞の前に all, every, next, this, that などが付きます。例文としては I lay awake all last night.「一晩中まんじりともしなかった」のようなものがあります。後半の hanging down to the ground ですが、もしかしたら down は不要かもしれません。全体的には上出来の作文と思います。

Why shall I have to lie in bed alone this autumn night long as the tail of a mountain phesant ?

N君:long 以下の形容詞句を後置するという発想が僕には湧きません。as は like のようなものですね。

MP氏:The long tail of the copper pheasant tails ー drags on and on like this long night in the lonely mountains where like that bird I too must sleep without my love.

N君:文末の love は抽象名詞ではなくて「恋人」の意ですね。on and on が長々しさをよく表していると思いました。MP氏は、人麻呂のみならず山鳥も独り寝をかこっている、と言っているわけですが、この想像力の広がりにはオドロキです。

S先生:そうですね。私もそこまでは考えませんでした。

K先輩柿本人麻呂の時代は、天智から天武持統へと大きく時代が転換する頃でした。斉明天皇の663白村江大敗北から、唐の日本侵攻を恐れた天智天皇が、瀬戸内各所に朝鮮式の山城を築いたり、大宰府に水城(みずき)を置いたり、九州に防人(さきもり)を配置したり、狼煙(のろし)をあげるための烽火(とぶひ)を設けたり、都を飛鳥から大津へひっこめたりして、ある種の不穏な空気が漂っていました。671天智天皇没し、息子の大友皇子弘文天皇としてほんの一瞬帝位にあったが、672壬申の乱で勝利した大海人皇子天武天皇となり、都を飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に戻してから、世の中はなんとなく落ち着いた雰囲気になってきました。大友皇子は心優しく優秀な人だったらしい。日本最古の漢詩集「懐風藻」に大友皇子作の漢詩が収められています。その弟に志貴皇子(しきのみこ)がいました。彼は万葉集に「岩走る垂水(たるみ)の上の早蕨(さわらび)の 萌え出づる春になりにけるかも」という爽やかな一首を残しています。天智天皇の息子たちは皆優秀です。壬申の乱の後しばらくは天武系の天皇が続くのですが、100年くらいして奈良時代終盤となり藤原百川(ももかわ)が久々に天智系の光仁天皇を擁立しました。この人もできる人。その息子の桓武天皇は794平安遷都を実現し、さらにその息子たち平城(へいぜい)天皇嵯峨天皇もそれぞれが優秀で、皇室の権威はおおいに高まりました。優秀すぎて810薬子の変で両者相争ったのは玉に瑕でしたが。話を戻しましょう。天智までは大王(おおきみ)と呼ばれていましたが、天武の頃から天皇と呼ばれるようになり、その権威向上のため、朝廷おかか歌人として柿本人麻呂は活躍します。「大君は神にしませば天雲の雷(いかづち)の上に廬(いおり)せるかも」のような歌を詠みました。そういえばこの前奈良盆地をドライブしていたら雷という地名が信号機に書かれていてびっくりしたのですが、もしかしたらこの歌と関係があるのかもしれないね。一文字の地名には古い気配が漂っているのです。同じようなことが福井県でもありました。福井の海岸近くをドライブしていた時に「沖の石トンネル」という名のトンネルがあって、百人一首No.92二条院讃岐が「沖の石の讃岐」と別称されていたことと何か関係あるのではないかと思っています。この話はNo.92のところで詳しく話します。話を戻します。天武持統の後を継いだ文武天皇が狩りに出た時に人麻呂が詠んだ歌「東(ひんがし)の野に陽炎(かぎろひ)の立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ」はスケールの大きな叙景詞になっています。人麻呂が今は亡き天智天皇を偲んで詠んだ歌「さざ波の滋賀のおおわだ淀むとも 昔の人にまた会はめやも」も心がこもっていますね。663白村江で敗れ近江大津宮に引っ込んだ天智天皇でしたが、天武の時代になった今、大津宮は捨てられ、再び飛鳥浄御原宮が営まれて、琵琶湖畔の港おおわだには誰もいなくなってしまったなあ、今はさびれてしまったが、ここは昔天智の大王(おおきみ)が居て賑わったんだよなあ、と詠われていて人麻呂の優しさが表れていますね。この「おおわだ」ですが、1180平清盛が福原遷都した先の大輪田の泊(とまり)=神戸 とは違うので一応注意しておきます。清盛の孫資盛(すけもり)は、都落ちして福原へ向かう平家の滅亡と自らの死を早くも1180の時点で予感して、恋人=建礼門院右京大夫(うきょうのたいふ)に「自分は死ぬ覚悟なので君とは一緒になれないんだ」と別れを告げました。潔い男だったと思います。この話は建礼門院右京大夫集「寿永・元暦の頃」に出ています。同じ建礼門院右京大夫集にある「女院大原におはします」では、1185壇之浦合戦の後に右京大夫が大原(平安京北東部にある小さな盆地)に、女院建礼門院=徳子=清盛娘=高倉中宮=安徳母 を訪ねる名場面があるのですが、この話についてはまたどこかで詳しく話す機会があるでしょう。

663:ムムッ残念、白村江。

672:壬申に、ロクな人間いやしねえ。

794:鳴くよウグイス平安京

810:ハーッ、色っぽいね、薬子さん。