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文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第466回 2022.6/27

百人一首No.44. 中納言朝忠:逢ふことの絶えてなくはなかなかに 人をも身をも恨みざらまし

もしも逢うことが絶対にないのであればかえってその方が、あの人のつれなさも我が身の拙い運命も恨むことがなくていいのになあ。(実際には稀ながら逢うチャンスがあるのでそれに期待したりして、あの人のつれなさや自身のふがいなさを恨んでしまうから困ったものだ)

N君:「し」は強意の間投助詞、形容動詞「なかなかなり」は「かえってAよりBのほうがマシ、なまじっかAであるよりBであるほうがまし」の意でこのあたりは難しいです。A=現状=時々会える状態、B=その反対=全く会えない状態、ということらしい。「なくは~ざらまし」は反実仮想で、「もし~でないなら恨まないだろうに」という意なので「実際はその反対なので恨んでいる」と分かります。

If I am not allowed to have a close relationship with her, it will be much better for me, for I don't have to worry about her cold-heartedness or my cowardliness.

S先生:N君の作文は「普通の仮定を表す if節の文」です。未来のことを言いたい時に主節は当然未来形だが副詞節は現在形にする、という可愛らしい規則があって、N君の作文はこの規則に沿って書かれていて、何も間違っていません。では「普通ではない仮定」とはなにか? それは「あり得ない仮定」の意味であって、筆者あるいは話者がそのあり得なさを自覚しながら作り出す文が「仮定法の文」です。以下の私の作文では仮定法でやってみましょう。N君の作文とどこが違うのかよく見ていて下さい。

If I could have no chance to see her at all, I never bear a grudge against her coldness or my misfortune.

「もしも彼女に会うチャンスが全くないなら(←実際には会う機会もあるのでこの仮定はありえない仮定であることを筆者は自覚している)、私は決して恨みを抱きません」の意味で、言い換えると「実際には会うこともあるのでそのたびに恨みを抱いてしまう」の意味になります。「普通の仮定」と「特別な仮定=あり得ない仮定=仮定法」がどう違うのかを、この機会に考えてみましょう。

漢文の仮定形は「若・如:もし~ば」「苟:いやしくも~ば」「微:~なかりせば」「縦:たとひ~とも」のような漢字で表現されていて、仮定に普通も特別もありません。中国語はこの面ではシンプルといえるでしょう。

古文(=昔の日本語)では、未然形を使うことで「いまだ定まっていない形=仮定条件=もし~ならば=普通の仮定」を表しているのです。ところがそこに「反実仮想助動詞まし」が加わることによって「特別な仮定=あり得ない仮定=英語で言うところの仮定法」が表現されます。日本語のややこしいところです。

英語は本来シンプルなのにどういうわけかこの部分だけが日本語に似てややこしくなっており、「普通の仮定」と「特別な仮定」の区別があるのです。これが皆の嫌いな仮定法の正体です。ここでもう一度N君の作文を見直してみて下さい。「普通の仮定」の文であり、冒頭に述べた可愛らしい規則があるだけなので、それに沿って作文すれば良いのです。ところが、仮定の意を強めて「あり得ないことを仮定する」ために「if節中の動詞を普通でない形にしました」というのが仮定法です。それが私の作文です。if節中の動詞を普通でない形にすることで、話者あるいは筆者は「こんなことはあり得ないと分かっていますよ」と聞き手や読者に訴えているのです。普通でない動詞の形とは何か? 現在の文であればif節の中身を過去の形で書くし、過去の文であればif節の中身を過去完了の形で書きます。私の作文では、現在の文なのにif節の中身が過去の形になっていますね。これは私が「実際には会う機会があると知りつつ、【もし全く会えないなら】というあり得ない仮定をした」ということです。話がややこしくなりましたが、要するに「普通の仮定を強調したのが仮定法で、使う動詞の形が違ってくる」と思っておいていただければよいと思います。仮定法関連の慣用句などもあるので色々経験しながら慣れていけばよいですが、勉強していて迷路に入ったら今日の話を思い出していただきたいと思います。最後に仮定法に関するたとえ話をします。標準的な公立高校において、クラスで1番のA君と30番のB君に先生が声を掛けるとしましょう。先生が「もしAが東大に受かるなら」と言う時は、これは普通の仮定を表すif節です。なぜならA君は本当に受かるかもしれないから。一方、先生が「もしBが東大に受かるなら」と言う時は、これは仮定法です。先生はif節中の動詞の形を変えて「Bは東大に受かりっこない」という気持ちを表現するでしょう。もし先生が仮定法を使わずに普通の仮定をしたら、先生はB君に対して期待していることになり、それを感じたB君は俄然ヤル気になるでしょう。

MP氏:It is not that I regret that we have loved.  But I would not feel so desolate now about your cruelty had we never met at all.

N君:MP氏の作品は解釈が難しそうですがS先生の解説をたよりにしながら僕なりにやってみます。第1文から第2文冒頭の But までは「愛し合ったことを後悔しているわけじゃないんだ、ただ、、、、」という前置きだと思います。問題は第2文です。後半の had we never met at all は if が省略されて助動詞 had が前に出た形であって、本来なら if we had never met at all「全く会えなかったならば」です。この文は全体として過去の文なのに if節中は過去完了形つまり普通でない形になっています。よって仮定法です。話者は、実際には会う機会があるのに、「全く会えなかったならば」というあり得ない仮定をしました。第2文全体の意味は「もし全く会えなかったならば、あなたのつれなさで私がこんなにみじめな思いをすることもなかったろうに」となります。裏を返せば「実際には会うこともあったので、そのつれない態度でこちらもみじめな気持ちになってしまった」という意味のことを言おうとしているのだと考えられます。

S先生:お見事、その解釈で正解です。現在のことに対するあり得ない仮定をif節中の動詞の過去形で表し、仮定法過去と呼びます。一方、過去のことに対するあり得ない仮定をif節中の動詞の過去完了形で表し、仮定法過去完了と呼びます。この呼び方もまた誤解を生ずる源となるので何か別に良い呼び方はないものかと思うのですが、昔からこうなので今さら変えることもできません。今回はやや理屈っぽく仮定法について語りましたが、理系の諸君には分かり易いのではないでしょうか。理屈だけでは足りないので、いろいろな形を実践して慣れていって下さい。

K先輩:日本史の試験ではどうしても記憶量の競争という側面があります。センター試験は1990に始まって2020まで30年間実施されましたが、これで満点を取るにはいったいどのレベルの知識が必要なのか? という問題に対して私なりの答えを提示したいと思います。1990の第4問を改変して以下に示します。江戸時代後期の寛政から天保年間にかけての庶民文化に対する幕府の弾圧事例に関して次の空欄に人名を入れ、それぞれの代表作を付記して下さい。

(1) 1791=寛政三年:洒落本作家(   )を手鎖50日に処した。

(2) 1804=文化元年:浮世絵師(   )を入牢3日、手鎖50日に処した。

(3) 1842=天保13年:歌舞伎役者(   )を江戸十里四方の追放に処した。

(4) 同年:合巻作者(   )を手鎖50日に処した。

(5) 同年:人情本作者(   )を手鎖50日に処した。

正解は順に、山東京伝~仕懸文庫、喜多川歌麿~ポッピンを吹く女、七代目市川団十郎四谷怪談伊右衛門役など、柳亭種彦偐紫田舎源氏為永春水春色梅児誉美 でした。これらの知識はかなり細かいですが、スラスラ出てきた人は満点を取るレベルにあるでしょう。今の自分のレベルとの差を感じていただけたと思います。

 

オリジナル勉強風呂Gu 第465回 2022.6/26

百人一首No.43. 権中納言敦忠(ごんちゅうなごんあつただ):逢ひ見てののちの心に比ぶれば 昔はものを思はざりけり

遂にあの人と逢瀬を遂げたが、その後の恋しい気持ちに比べれば以前の恋心などは何も思っていなかったのと同じであったなあ。

N君:「逢ひ見る」というのは男女の肉体関係を暗示しているそうです。したがって「契りを結ぶ」「逢瀬を遂げる」のような訳になります。

I have come to love her much more deeply since our intimate affair.  Compaired to the present mad feelings, my love for her before that night was too faint to call it a true love.

S先生:ウン、やや冗長ですがなかなか良いですよ。intimate は「親密な」の意を表す形容詞ですが、例えば男が She is my intimate friend. と発言した場合は性的な関係を暗示しています。それを否定したいなら intimate ではなく good や close を使います。ここではN君は intimate affair という使い方をしていますがこれは「情事」の意味であってピッタリですが、歌としては生々し過ぎるかもしれませんね。

After having had a tryst with her, I long for her all the more painfully.  My love ere I had an intimate affair with her does not deserve to be called so.

N君:ere は before に似た意味の古い接続詞。deserve to do「~の価値がある」。文末の so は love の意でしょうか。

S先生:その通りです。ere は少し気取って古語を使ってみました。all the +比較級   は「かえって、ますます、それだけ」のように比較級が強調されます。この後に for がくっついて理由を述べます。 She got all the more angry for my silence. 「私が黙っていたので彼女はますます怒った」のように使います。さて今回も、第459・462・464回に続いて「日英ことわざ比較」をやります。

(1) 綸言汗の如し=王の言葉は不動であらねばならぬ:A king's word must stand.

(2) 夜目遠目傘の中(うち)=ろうそくの火で女性や寝具を見て選んではいけない:Choose neither women nor linen by candle-light.

N君:(1)では stand の訳し方が秀逸だと思いました。(2)はどういうことですか?

S先生:今の若い人は知らないかもしれませんが、「女の人というのは、夜に見た時や遠くから見た時や傘をさしてにいる時には美人に見えるものだ」という昔からの言い伝えです。言われてみればそうですよね。

(3) 弱り目に祟り目=ひとつの不幸はもうひとつ別の不幸の背に乗っている:One misfortune rides upon another's back.

(4) 李下に冠(かんむり)を正さず=悪いことをする気のない人は疑わしいことをしてはならない:He that will do no ill must do nothing that is suspicious.

(5) 精神一到何事か成らざらん=やる気のある人にはできないことなどない:Nothing is impossible to a willing mind.

N君:この to が分かりません。「やる気さえあれば」なので with のほうがしっくりくると思うのですが、、、。

S先生:この a willing mind は「やる気」ではなくて「やる気のある人」という意味です。ゆえに「やる気のある人にとっては」とするために to のほうが適しています。

(6) 寸鉄人を刺す=舌は蛇のひと咬みよりも有毒だ:The tongue is more venomous than a serpent's sting.

(7) 言うは易く行うは難し=言葉から行為まではものすごく遠い:From words to deeds is a great distance.

(8) 鳥なき里の蝙蝠(こうもり)=ひとつ目の男でもめくらの中に入れば王様だ:He that has one eye is a king among the blind.

(9) 天網恢恢疎にして漏らさず=天の復讐はゆっくりだがキッチリしている:Heaven's vengeance is slow but steady.

(10) 泥縄=泥棒を見て縄をなう=雨が降り出した後でコートを作ってもらってはいけない:Don't have your cloak made after it begins to rain.

K先輩:本歌は後朝(きぬぎぬ)の歌です。一夜を共にした男女が朝になって別れ、男は自分の家に帰った後に女に歌を送ります。なんとも風流ですね。敦忠は歌もうまいが琵琶の名手でもあったらしい。貴族が嗜むべき芸術として「琴棋書画」があります。琴は管弦を中心とした音楽、棋は囲碁、書は楷・行・草の毛筆、画は絵画ですね。「琴棋書画が一流のレベルに達していてしかもそれを生業(なりわい)にしないこと」が風流人の条件でした。とすると風流人であるためには金持ちでなければなりません。お金の心配があったら趣味に没頭できませんからね。ところが鴨長明「発心集」には、貧乏なのに風流な永秀法師の話が出てきます。永秀は金もないのに働きもせず笛の稽古ばかりしています。ある日、遠い親戚筋にあたる頼清の家を訪ねてきました。「金の無心か?」と頼清は身構えたのですが、なんと永秀は、頼清が持つ筑紫領に生えている竹を一本分けてくれ、と言うのです。笛を作るのに筑紫の漢竹が好適らしい。頼清は永秀の清廉な態度に感服して、竹だけではなくてお金も用立てようとするのですが、永秀はこの申し出を断ります。「御志はかしこまり侍り、されど其れは事欠け侍らず、二三月に帷(かたびら)ひとつまうけつれば十月まではさらに望む所なし」と言ったのです。Tシャツ1枚あるから秋まではそれで充分です、と言ったわけですが、これはなかなか言えるセリフではないです。こういう人になりたいものですが、なかなか難しいですね。

 

 

オリジナル勉強風呂Gu 第464回 2022.6/25

百人一首No.42. 清原元輔(きよはらのもとすけ):契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは

約束したなあ。お互いに涙で濡れた袖をしぼっては、末の松山を波が越さないのと同様に、二人の心が変わらないことを。

N君:「末の松山」について調べました。宮城県多賀城市の丘に石碑「末の松山」があり、古来大津波が来てもここを越える可能性はない、といわれているポイントです。「絶対にあり得ない」の意を持つ歌枕で、昔の歌に「君をおきてあだし心をわが持たば 末の松山波も越えなむ」と詠まれています。つまり「末の松山を波が越える」=「あり得ないことが起きる」=「男女の恋の心変わりが起きる」という意味です。東北地方というのは昔から大津波が来ていたんだなあ、と初めて知りました。記録に残っている最古の津波貞観地震の頃といいますから800年代前半です。しかし縄文弥生の昔からこの地は何度も津波に襲われてきたのでしょう。石碑「末の松山」はそのシンボルであり、2011東日本大震災においても津波はこの石碑を越えなかったとのことです。

Squeezing sleeves moist with tears, we had promised with each other that our deep love would never change as sea waves could never go over Mt. Suenomatsu.

S先生:「末の松山」という歌枕を今日初めて知りましたが、やはりその土地土地に特有の事情というものがあるのですね。英作文はまずまずと思います。

Oh, did we not vow that we would never change our minds as surely as no waves could go over Mt. Suenomatsu, wringing each other's sleeves wet with tears ?

N君:wring「絞る」。助動詞 did が飛び出して強調構文になっているのですか?

S先生:そもそもこの分は didn't we vow that ~ という否定疑問文で「~と誓ったのではなかったか?」という意味なのですが、文語調にしようとして did we not vow that ~ としてみました。

MP氏:We pledged our love.  Wringing tears from our sleeves, we both vowed nothing would part us, not even if great waves engulfed the pines of Mount Forever.

N君:engulf「波や戦争や火災が~を飲み込む」。even if の前にある not は何なのか? not をなくすと「【たとえ津波が松を飲み込んでも何者も我々を引き裂くことはできない】と誓った」となって意味が通ると思います。

S先生:同感です。でもちょっと見方を変えてみましょう。we both vowed nothing would part us,「何者も我々を引き裂くことはできない」で一旦切ります。それに続く not はもう一度「引き裂くことはできない」と言っていて、最後に even if 節がくっついていると考えてみてはいかがでしょう。ただしこれは私も自信がないのでMP氏に質問したいですね。文末の Mount Forever にはビックリしました。さて第459回および第462回に続いて今回も「日英ことわざ比較」の続きをやります。

(1) 雀百まで踊り忘れず=三つ子の魂百まで=ゆりかごの中で身につけたことは墓まで運ばれていく:What is learned in the cradle is carried to the grave.

(2) 衣食足りて礼節を知る=空腹の奴は怒っている奴:A hungry man is an angry man.

(3) 塵も積もれば山となる=たくさんの小さなことが多量を作る:Many a little makes a mickle.

N君:many のあとに単数形が来ているのは珍しい。

S先生:全体をひとまとまりとしてとらえているので単数として扱っていますね。many+複名=複数 であってこれは普通ですが、本例のように many+単名=単数 となります。それと、m-m-m の頭韻を踏んでいます。

(4) 風が吹けば桶屋が儲かる=福音は期待していない人の手に降りてくる:Bliss often falls into the hands of an unexpected person.

(5) 多芸は無芸=器用貧乏=何でもうまくやる奴は何事も名人たりえない:Jack of all trades and master of none.

N君:Jack って何ですか?

S先生:Jack は「奴」くらいの意味です。

(6) 来てみればさほどでもなし富士の山=たとえ英雄であっても、いつも会っている召使いにとっては、ただの人:No man is a hero to his valet.

K先輩:英語の勉強中ですがちょっと失礼します。この「来てみればさほどでもなし富士の山」という格言というか俳句というか歌みたいなものの作者は、幕末の長州藩来島又兵衛(きじままたべえ)だと言われています。1864蛤御門の変で死にました。豪放磊落な性格で薩会(さっかい、薩摩+会津)との戦いを主張する勇ましいオヤジでした。この時、長州の攻め手はほとんどが20代30代の若手だったのですが、来島は40代中盤でした。嫁さんには頭のあがらない愛すべき男でした。蛤御門では薩摩藩川路利良に鉄砲で撃たれました。川路は明治になって東京邏卒隊の隊長から最終的に大警視(今の警察庁長官)になっています。この蛤御門は現在の京都御所の西にある門で、行ってみると、門の柱に多数の銃痕が今でもはっきりと残っています。N君も蛤御門へ行くことがあったら是非とも来島又兵衛川路利良のことを思い出してあげて下さい。蛤御門で死んだもう一人の長州藩士は久坂玄瑞(くさかげんずい)です。まだ20代前半だったと思います。生きていたら明治の世では少なくとも大臣にはなっていたでしょう。

S先生来島又兵衛のことは全く知りませんでした。

(7) 良きものは得難し=一番良い魚は底を泳ぐ:The best fish swims near the bottom.

(8) 言うは易く行うは難し=哲学者のように話し馬鹿者のように生活する:They talk like philosophers and live like fools.

(9) 空虚なる人は多弁=空の器を叩くと大きな音がする:The empty vessel makes the greatest sound.

(10) 柳に雪折れなし=嵐が吹くと樫は葉を落とすが葦は生き残る:Oaks may fall while reeds survive the storm.

K先輩:今回は「末の松山」で東北の話が出たので、東北つながりで岩手県遠野市を舞台にした江戸時代~明治初期の説話「遠野物語」について語ってみましょう。あの世とこの世の境界にまつわるたくさんの興味深い話が次々に出てきて飽きることがありません。遠野物語の出版物はたくさんありますが、NHK出版「100分で名著:遠野物語」が安くてコンパクトで分かりやすいので、このあたりから入ってみることをお勧めします。遠野は、岩手県の太平洋岸の釜石と北上川沿いの花巻の中間点に位置する小さな盆地で、ある種まわりから隔絶されたユートピア的な土地です。明治の終わりに遠野出身の佐々木喜善(ささききぜん)が早稲田の学生として上京してきた際に、佐々木が祖父から聞いていた遠野の話を民俗学者柳田邦男(やなぎたくにお)が聞き書きして誕生したのが遠野物語です。河童(かっぱ)や座敷童子(ざしきわらし)の話が有名ですがこのほかの話も魅力的なものばかりです。何篇か紹介しましょう。

(1) 平地人を戦慄せしめよ:これは柳田が序文の中で述べている印象的な言葉です。「国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし、願わくばこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べています。山神山人 vs 平地人 です。山神山人とは、大げさに言えば、縄文文化のまま稲作を知らず山地に追いやられた狩猟の民で、文字も西洋文明も知らぬまま明治を迎えた人達のことです。そんな人間が実際に居たかどうかは別にして、要するに山神山人とは超田舎者くらいの意味でしょう。一方、平地人とは、表の日本史を歩いてきて稲作・文字・西洋文明にも触れた普通の人達、もっと言えば東京人。ゆえに遠野物語は山神山人の話であって、科学では説明のつかない「あの世、魂、神様、妖怪、自然」の話です。

(2) デンデラ野:村の集落で暮らしていた男や女は還暦を過ぎると自発的に家を出て、近くの台地=デンデラ野 へ移り住むしきたりになっています。デンデラ野は老人たちの集団生活の場であり、元気な者は村へ降りて行って野良仕事の手伝いをして食料を分けてもらいデンデラ野に持ち帰って老人たち皆で分けて食べます。病気や老衰の者を看取ります。若い者の邪魔にならぬよう、それでも皆と楽しく過ごして死を迎えます。死んだらダンノハナという近くの台地に葬ってもらいます。そういう無理のないサイクルが出来上がっていて、大和物語の昔から発生していた「姥捨て」の問題に一つの解答を与えているのです。

(3) 里における精神病者の受容:これは明治になってからの話です。母と、精神を患った息子の二人暮らし。息子が鎌で母に切り付けます。肩口から多量の出血があり、母の叫び声を聞いて駆け付けた村人に取り押さえられた息子は警察に突き出されました。流れる血の海の中で母は「自分は恨みもなく死ぬので息子のことは許してやって下さい」と懇願し、村人たちはその母心に涙を流します。精神鑑定の結果無罪となった息子は放免され「家に帰り今も生きて里に在り」で、この話は終わっています。どうですか、令和の現代では考えられないことでしょう。そのような危険人物を村人たちは受容しながら生活していたことになりますね。江戸~明治時代の田舎というのはこんな感じだったのですね。当時は精神病院もなかったでしょうから、どうしてもこういう結果になるのでしょう。

(4) 日常と怪異との接点:これは私が説明するよりも原文をそのまま紹介しましょう。佐々木氏の曾祖母年寄りて死去せし時、棺に取り納め親族集まり来てその夜は一同座敷にて寝たり。死者の娘にて乱心のため離縁せられたる婦人もその中に在りき。喪の間は火の気を絶やすことを忌むが所の風なれば、祖母と母の二人のみは大なる囲炉裏の両側に座り、母は傍らに炭櫃(すびつ)を置き折々炭を継ぎてありしに、ふと裏口の方より足音して来る者あるを見れば、亡くなりし老女なり。平生腰かがみて着物の裾の引きずるを三角に取り上げて前に縫い付けてありしが、まざまざとその通りにて縞目にも見覚えあり。あやなと思う間もなく、二人の女の座れる炉の脇を通り行くとて、裾にて炭取りに触りしに、丸き炭取りなればクルクルと回りたり。母は気丈の人なれば振り返り後を見送りたれば、親類の人々打ち臥したる座敷の方へ近寄り行くと思う程に、かの狂女のけたたましき声にて「おばあさんが来た!」と叫びたり。ほかの人々はこの声に眠りを覚まし只打ち驚くばかりなりしと言えり。三島由紀夫は、「老女の幽霊の裾が丸い炭取りに触れてクルクルと回ったところが、日常と怪異との接点だ」と評したそうです。

(5) 明治の大津波で死んだ妻の幽霊:二人の子を持つ若い夫婦がいたが、明治29年の大津波に飲み込まれた妻の遺体は発見されなかった。夫は翌年の夏の夜に海岸で、死んだはずの妻と死んだはずの里の男が仲良く歩いているのを発見した。妻は自分と結婚する前はこの男と恋仲であった。夫が二人を呼び止めると、妻は振り向いてニコリとしたが、この妻もこの男ももはやこの世の者ではないことが感じられる。夫は「子供が可愛くないのか」と詰問するが、妻はうつむいて泣き「今はこの人と夫婦になりてあり」と言ってスーッと歩いていって見えなくなった、、、。なんともやるせない話ではありませんか。しかし、遺体が上がらずなんとなく妻の死を現実として受け入れることのできていなかった夫にとって、この経験は(辛いながらも)妻の死を受容して一歩を踏み出すきっかけになったのではなかろうか、と私は思います。

今回は歌枕「末の松山」から始まって東北つながりで遠野物語を見てきましたが、三陸海岸と大津波は昔から切っても切れない関係にあることをまざまざと知りました。

 

オリジナル勉強風呂Gu 第463回 2022.6/24

百人一首No.41. 壬生忠見(みぶのただみ):恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人しれずこそ思ひそめしか

恋をしているという私の噂が早くも立ってしまった。誰にも知られないように心ひそかに思い初めていたのに

N君:「まだき」は副詞で「早くも」「もう」の意。あまり使われませんが現代でも「朝まだき」という言葉があります。これは現代では名詞になっていて、朝方のまだ夜が明けきらないころ、つまり「未明」の意です。本歌では上句と下句が倒置されていて、本来は「人知れずこそ思いそめしか 恋すてふわが名はまだき立ちにけり」です。この場合「係り結びがそこで終わらずに続いていく時には逆接の意」を表すので「思っていたのだが」と訳します。古文の大切なところで第469回にも出て来ます。

Although I secretly started to love her, people have already begun to talk about it.  How on earth could they notice my private love ?

S先生:ほぼ良いと思います。N君の第1文や以下に示した私の作文でもそうなのですが、主節の主語と従属節の主語が相異なっていますね。これは間違いというほどではないのですが、できれば避けたほうが良いとされています。主語が一致している文のほうが読みやすいからなのでしょう。

A rumor is already spread that I am in love with her though I have had a secret love for her.

K先輩:第462回に「我が国初の文字使用例」~「暗黒の5世紀」について話したので、今回はその続きとして「中国の歴史書に書かれた倭国の姿」について語ってみたいと思います。我が国には文字がなかったのでその様子を知るためには中国の歴史書に頼るしかないのです。BC100~AD500くらいの約600年間に、倭国に関する記述が4つあります。第1は「漢書地理志」です。BC100~AD0 くらいの倭について書かれていて「夫(そ)れ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国と為す、歳時をもって来たり献見すという」というフレーズで有名です。楽浪郡というのは今の北朝鮮の東部にあたり、ここに前漢の出張所があって、この出張所に倭国から貢物を携えた使節がお中元・お歳暮を持ってきていた、というのです。この頃倭国は100個くらいの小国に分かれていたのですね。その中の有力な数か国が楽浪郡へやってきて前漢の庇護を求めた、ということなのでしょう。第2は「後漢書東夷伝です。東夷というのは東方にいる夷(えびす)=田舎者 という意味です。当時の倭国を中国から見ればそのように見えたでしょう。そもそも「倭」というのは「背の小さな人」の意味で、栄養不良の結果でしょう。さてこの後漢書東夷伝には具体的な年号を持った情報があって非常に有用です。まずは「57年に倭の奴国(なこく)が後漢の都洛陽に使いを送り光武帝から印綬を授けられた」という記述があります。「漢倭奴国王(かんのわのなこくおう)」と書かれたこの金印は江戸時代の中頃に福岡県志賀島で発見されました。百姓の甚兵衛さんが農作業中に石の下から見つけたそうです。鉄と違って金は錆びないのでピカピカ光っていたでしょうね。3cmくらいの小さな金印で、福岡の博物館で初めて見たときはその小ささに拍子抜けしてしまいました。あれはレプリカだったのかもしれませんがとにかく小さかった。志賀島博多湾を形成する”海の中道”の先端に位置する島ですがほぼつながっていて、車でそのまま行けます。ここに金印公園という名の公園があって私も行ってみました。金印をイメージしながら行ったのですが、来てみると元寇に関する看板が付近にたくさんあって「なるほど金印より元寇なんや」と感心した思い出があります。金印も元寇も外国との接点があってこその遺物であり事件であったと思います。ここの海を眺めながら、弥生時代あるいはもっと昔から、北部九州は大陸や朝鮮半島と密接につながっており、平城京平安京の純和風な感じとは全く異なる文化圏にいたのだ、という思いを強くしました。さて57金印に続く後漢書東夷伝の記述を訳すと「107年に倭の国王帥升(すいしょう)が安帝に生口(せいこう)160人を献じた」となっています。帥升が倭のどのあたりの国王だったのかは不明です。生口というのは奴隷のこと。その国に金とか馬とか錦とかの特産物があればそれを献上すればよいのですが、貧しくて遅れた国にはそのような特産物はありませんから、人間そのものを献上するというわけです。献上される人間というのは奴隷であったり美女であったりしたでしょう。さて57金印、109帥升、に続く記述は「恒霊の間(147~189)倭国おおいに乱れ更相攻伐して暦年主なし」です。一言でいえば「倭国大乱」ですね。100余りの国たちが戦いを繰り広げながら次第にまとまっていく真最中にあります。第3は「魏志倭人伝でこれが最も有名かつ最も多くの情報量を持っています。その書き出しは「倭人は帯方東南、大海の中に在り、山島に依り国邑を為す、もと百余国、漢のとき朝見する者あり、今使訳通ずる所は三十国なり」です。100から30に減りましたね。これには倭国の習俗や小国の配置や邪馬台国統治機構などについて面白いことがたくさん書かれていますが、最も大切な記述は「239年に卑弥呼が使者(難升米、なしめ)を魏に遣わして天子から【親魏倭王】の称号と金印を授けられた」です。先ほどの甚兵衛さんの金印とは違って、卑弥呼が魏からもらった金印はまだ見つかっていません。その金印の銘文は不明ですが仮に「親魏倭王の金印」ということにしておきましょう。令和の現在でも邪馬台国の位置については北九州なのか奈良盆地なのか論争が続いていますが、もしもどこかから「親魏倭王の金印」が出てきたら大スクープになります。それが出た所が邪馬台国です。ちょっと話が飛びますが、奈良県桜井市三輪山というきれいな山がありその西麓に大神(おおみわ)神社があります。三輪山自体がご神体という珍しいお宮で、大きな鳥居が遠くからでも目立ちます。ここの主祭神大物主大神(おおものぬしのおおかみ)という男の神様で、その嫁はんが第7代孝霊天皇の皇女である倭亦亦日百襲姫命でした。読み方が難しいので一字一字確認しながら「やまと・ととひ・ももそ・ひめのみこと」と読みます。第462回で考察した第14代仲哀天皇(神功皇后の夫、応神天皇の父)が300年代後半でおそらく370くらいとして、1代あたりの活躍期間を20年と考えると孝霊天皇は 370-(14-7)×20=230 となって孝霊帝は200年代前半の人、ということになります。その娘である倭亦亦日百襲姫命は 230~250くらいの頃の人でしょう。この女性は子供の頃から神懸かり的な逸話を残しており謀反の予言などもやったようです。この230という数字は、古代ロマンを追っている者にとっては”特別な響き"を持っているのです。そう、卑弥呼のふみ来る倭人伝、すなはち239年だからです。さて倭亦亦日百襲姫命は夫である大物主が夜だけは閨(ねや)に来るのに昼間はどこかに姿をくらましていることを訝しく思い、「昼間も一緒に居て」と頼みます。そのあと朝になって大物主の姿を見るとなんと「一匹の美しい蛇」だったのです。あまりのことに驚き悲しんだ倭亦亦日百襲姫命は「箸を自分の陰部に突き立てて」死んでしまいました。私は古事記のこのあたりの記述がどうも奇想天外すぎてついていけないのですが、とにかく倭亦亦日百襲姫命は若くして亡くなったようです。出産の際の出血多量で死んだのかもしれません。夫である大物主を祭った大神(おおみわ)神社から北へ1kmくらい行ったところに大きな前方後円墳があり、大昔から箸墓古墳と呼ばれています。名古屋大学中塚武教授は「年輪セルロースを対象とした酸素同位体による1年単位での年代測定」を精力的に進めており、箸墓古墳出土の木材から230あたりの年代が測定されれば、一気に「卑弥呼=倭亦亦日百襲姫命」が現実的になってきます。第462回で私は「卑弥呼は大和政権草創期の少し後に存在した女シャーマンだ」と言いましたが、その結論は「卑弥呼は倭亦亦日百襲姫命でありその墓は箸墓古墳だろう」です。親魏倭王の金印がまだ出てきていない現段階では、中塚教授の研究結果が待たれるところです。日本書紀箸墓古墳について「昼は人が造り夜は神が造る」と表現していて昼夜兼行の大事業だったようです。魏志倭人伝にも「卑弥呼死しておおいに塚を造る」と記述されています。さて魏志倭人伝は最後に「卑弥呼の死後に男王が立ったが国が乱れたので、後継者として壱与(いよ)という名の女子を立てたところ国が収まり、壱与は266年に西晋に使いを出した」と記述しています。この後300年代にはちゃんとした資料が存在せず、唯一の資料は第462回でも触れた391好太王碑で、私は神功皇后がかかわっていたのではないかと考えています。第4は「宋書倭国伝」です。これは讃・珍・済・興・武 すなわち「倭の五王」の話であり第462回にて詳しくやりました。400年代の話になります。その中に倭王武=第21代雄略天皇が478年に宋の順帝に上表文を出していることが書かれています。雄略天皇は「私の祖先は東~西~海北に出兵して多くの小国を切り従えてきました、ついては今回これらの地域をまとめた私を安東大将軍倭国王として認めて下さい」と言っています。順帝は「おお、よしよし」みたいな返事をしていますが、百済への統治は認めなかったようです。いろいろな power balance があったのでしょう。

57漢倭奴国王の金印:粉ふりかける光武帝

239卑弥呼が魏へ使いを出す:卑弥呼のふみ来る倭人

391広開土王碑:サンキュー一発好太王

478雄略天皇の上表文:死なばもろとも雄略帝

以上の 漢書地理志~後漢書東夷伝魏志倭人伝宋書倭国伝 を概観しますと、時期的には BC1~AD1および2~AD3~(AD4をとばして)~AD5 という並びになります。内容的には、百余国~金印「漢倭奴国王」と倭国大乱~三十か国のひとつ邪馬台国とその女王卑弥呼倭の五王 となります。500年代に入って福井県からやってきた第26代継体天皇が即位し、この頃から我が国の歴史には薄陽が射すようになります。暗黒の5世紀を抜けたの感あり、です。

ちなみに BC=before Christ=キリスト誕生以前、AD=Anno Domini=in the year of Our Lord=我らが主の紀元~年=キリスト生誕後~年 という意味です。

オリジナル勉強風呂Gu 第462回 2022.6/23

百人一首No.40. 平兼盛(たいらのかねもり):しのぶれど色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで

心の中にこらえてきたけれどついつい私の顔色に出てしまった。私の恋は「恋のもの思いでもしているのですか?」と他人が私に問いかけるほどになっていたのだった。

N君:良い歌ですよね。恋の切なさを上手に表現しているなあ、と思います。この歌と次のNo.41壬生忠見「恋すてふ我が名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思いそめしか」はともに「忍ぶ恋の歌」ということで歌合せの会で優劣を競いました。どちらも良い歌で優劣つけ難かったのですが、村上天皇が兼盛の歌を取った、という話が残っているそうです。10世紀中ごろのことで、優雅な話です。

Although I have been trying to conceal my emotion so as not to be noticed, it has appeared so clearly on my countenance that people ask me if I am in love.

S先生:文法的には特に言うこともないのですが、全体的に硬い印象を受けます。特に emotion や countenance という単語が固い印象を与えるので、できれば使いたくないですね。

Though I have been trying to hide my love for her, my look reveals it, people asking me if I am deep in love.

MP氏:Though I try to keep it secret, my deep love shows in the blush on my face.  Others keep asking me ー Who are you thinking of ?

N君:うーん参りました。S先生~MP氏の作品が、僕の作文の数段上を行っていることが分かります。柔らかくて軽妙、とでも申しましょうか。

S先生:MP氏の作品は本当に素晴らしいですね。私も勉強になります。さて今回も第459回に引き続いて「日英のことわざ比較」をやって英語脳を磨きましょう。

(1) 蛇の道は蛇=泥棒を捕まえるには泥棒を使え:Set a thief to catch a thief.

(2) 柳の下にドジョウはいない=幸運は続かない:Good luck does not often repeat itself.

(3) 朝には紅顔、夕べには白骨=死の扉以外は全て閉じられている:Every door is shut but death's door.

N君:この but は接続詞ではなく前置詞で「~以外は、~を除いて」の意ですね。

S先生:そう。大修館の辞書から例文を引いておきましょう。I ate nothing but bread and butter. 「バターを塗ったパン以外は何も食べてません」

(4) 噂をすれば影=悪魔の事を話すと悪魔が現れる:Talk of the devil, and he will appear.

(5) 身から出た錆=穴を掘る奴はそこに落ちるだろう:Who digs a pit shall fall therein.

(6) 楽あれば苦あり=喜びはそのしっぽにトゲを持つ:Pleasure has a sting in its tail.

(7) 欲は失敗の元=たくさんの荷物を背負ったラクダの背を折るのは最後の藁一本:It is the last straw that breaks a camel's back.

(8) トンビに油揚げをさらわれる=バカ者が家を建て賢人がそれを買う:Fools build a house, and wise men buy it.

(9) 大山鳴動して鼠一匹=毛を刈られる時に羊はメエメエ大声で泣くが取れる羊毛は少しだけ:A great cry and little wool.

(10) 一を聞いて十を知る=賢人には一つの言葉で充分:A word is sufficient to the wise.

N君:(8)の「バカ者が家を建て賢人がそれを買う」は、マイホームのローンをコツコツ払っている日本人にはこたえるでしょうね。

S先生:そうだね。お金持ちは不動産を転がすだけだからね。

K先輩:そうなんですよね。一般庶民に比べて専門知識のある人がどうしても上になります。飛鳥時代にもそういうことはありました。文字です。倭国にはまだ文字というものがなく中国大陸や朝鮮半島からの渡来人が漢字の音を使って、4~5世紀の大和政権において出納や外交文書の作成にあたっていたと考えられます。現存する我が国初の漢字使用例として、471埼玉県稲荷山古墳の鉄剣銘文、およびほぼ同時期の熊本県江田船山古墳の鉄刀銘文があり、さらには 443 or 503 和歌山県隅田(すだ)八幡の人物画像鏡の縁に書かれた銘文、があります。私は稲荷山古墳や江田船山古墳にはまだ行ったことがないのですが、隅田八幡には偶然行きました。その日私は空海が開いた金剛峯寺のある高野山へ行ってみようと思って京都から南下して紀の川上流の橋本市まで来ました。あとは南方の山に分け入って登っていけば高野山で、その麓には1600関ケ原の後に真田昌幸・幸村父子が幽閉された九度山があることも分かっていたので「いろいろ楽しみ」と思っていたのです。橋本の駅で路線図を眺めていたら、橋本から紀の川に沿って東へふた駅行ったところに「隅田」という小さな駅があることに気づきました。「隅田ってもしかしてあの隅田八幡の隅田?」となって心臓がバクバクしてきました。serendipity「予期せぬ僥倖」とはこのこと。犬も歩けば棒に当たるものです。高野山は後回しにしてとにかく隅田の駅へ行ってみることにしました。そこはすごく鄙びた小さな駅で、すぐ近くにあった食堂のおばちゃんに尋ねたところ「なんか昔の字が書かれた鏡がある神社らしいけど」とのことで道を教えていただきました。歩いて1㎞ほどの山の南麓に隅田八幡神社はありました。石段を登って境内に入ると鉄製の大きな丸い鏡のレプリカが立っていて、銘文を読むことができました。その中にある「癸羊(みずのとひつじ)」が443なのか503なのかまだ分かっていません。5種類ある干の一つが癸、12種類ある支の一つが羊なので、5×12=60種類の組み合わせがあり、443+60=503 なる関係が成り立っています。銘文をかいつまんで読むと「癸羊の年、A王がB宮に居た時に、その健康長寿を祝ってC王が部下二人に命じて上等の銅を使ってこの鏡を作らせた」みたいなことが書かれています。A・B・Cともに詳細不明ですが特にAが気になります。もしも503とすればAは第26代継体天皇が有力で、そうなればかなり新しいし、分かっていることもたくさんあります。しかし443だとすると一気に霧が立ち込めて視界不良となります。400年代すなわち5世紀は「倭の五王の時代」「暗黒の5世紀」などと呼ばれていて、分からないことが多いが故に古代ロマンをかきたてるのです。我が国の5世紀に関しては宋書倭国伝に倭の五王「讃・珍・済・興・武」が出てきます。武=第21代雄略天皇 というのはだいたい分かっていますがあとは霧の中。日本書紀によると、雄略(21)の兄が安康(20)で、この二人の父が允恭(19、いんぎょう)、その次兄が反正(18、はんぜい)、長兄が履中(17、りちゅう)です。この三兄弟の父が仁徳(16、にんとく)、その父が応神(15)です。この15代応神天皇から21代雄略天皇のあたりが讃・珍・済・興・武に当たるのですが、正しく比定することはできていないのです。応神の母は古代史のスーパースター神功皇后熊襲征伐や三韓征伐で有名な勇ましい女性。応神が400前後の人だとすると神功皇后は300年代後半の人と考えられます。現在の北朝鮮にあたる高句麗の首都であった丸都(がんと)に好太王碑(広開土王碑)と呼ばれるおおきな石碑があってそれに「391年に倭が攻めて来た」みたいなことが書かれているので、もしかすると神功皇后が海を渡って朝鮮半島で戦争をしたのかもしれません。神功皇后の夫は仲哀天皇(14)で、この人は熊襲征伐のため九州に来ていて今の福岡県で亡くなったらしい。仲哀天皇の父は日本武尊(やまとたける)であって、このあたりから一気に神話の世界に入っていきます。いずれにしても仲哀天皇神功皇后の夫婦が300年代後半で応神天皇が400年頃でしょう。魏志倭人伝によると卑弥呼が魏に使いを出したのが239なので、もしも大和政権の御先祖が卑弥呼だとすると、卑弥呼は大和政権草創期の人ということになります。この頃は寿命が30~40歳くらいでしょうから、1代あたりの活躍期間を20年くらいと見積もると、370頃の仲哀天皇(14)から見て13代前の神武天皇(1)は370-20×13=110となって、初代神武帝は100年代前半の人、ということになります。239に登場する卑弥呼の立ち位置は不明ですが、「大和政権草創期の少し後に存在した女シャーマン」である可能性が高いと思います。シャーマンというのは神様と交信する能力を持った祈祷師です。大分県宇佐市にある宇佐神宮には拝殿が3つあって、向かって左が応神天皇(15)、向かって右がその母神功皇后、真ん中は比売大神(ひめおおかみ)という名の女神ですが誰だか分かっていません。古代史のスーパースターふたりを両脇に従えて真ん中に鎮座するこの女神はいったい誰なのか? 卑弥呼なのか? 壱与(いよ、卑弥呼の後継者)なのか? 興味は尽きません。

239卑弥呼が魏に遣使:卑弥呼のふみ来る倭人

391好太王碑:作為的な碑文、ホントに倭を追い返したのか?

443隅田八幡の鏡:シジミの味噌汁隅田八幡

471稲荷山鉄剣・江田船山鉄刀:竹刀じゃないぞ鉄剣だ

番外編として奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮につたわる七支刀の銘文があります。七支刀というのは先端が7つに分かれている炎のような形の刀です。百済の王から倭国の王へ送られたと考えられているので、我が国オリジナルの文字ではありません。錆びがひどくて年代ははっきりせず、268・369・468などの説があります。268なのか369なのか468なのかで話は全く変わってくるので軽々なことは言えませんが、いずれにしてもこの石上神宮物部氏の守り神であり、物部氏の伝統の凄さがうかがえますね。あまり大きなお宮ではありませんが古式ゆかしい雰囲気の漂う素晴らしいところです。私がお参りしたとき鶏がたくさんいたのでなんだろうな?と思っていたのですが、あとで尋ねたら、鶏は神様の使者、とのことで、石上神宮で飼育しているのだそうです。

埼玉県稲荷山古墳から出た鉄剣には「辛亥」の銘があって471に特定されています。それゆえ「辛亥銘鉄剣」とも呼ばれます。471から、60年=1サイクルをなんと24サイクル経過した1911=明治44年が中国における「辛亥革命」の年です。三民主義を掲げる孫文が清国を倒して中華民国を打ち立て、ようやく大陸においても西欧列強に伍していく体制が作られたのです。ところが袁世凱の邪魔が入ってふたたび中国はズブズブ状態へ逆戻りし、孫文は日本へ亡命します。日本国内では、孫文を援助して中国をまともな体制にしよう、という声も強かったのですが、前年1910に朝鮮半島を併合したばかりだったため、政府は中国に対しては不介入の立場をとりました。このころ日本は桂園時代といって桂太郎西園寺公望が交互に組閣する時代で、「朝鮮で手一杯だから中国には介入しない」という態度をとったのは正しい判断だったと私は思います。しかし令和の現在から見れば「朝鮮にさえも手出しするべきではなかった」と思います。民間が進出して起業するのは良いとしても、植民地にしてしまったのはどうだったでしょうか。そういう時代であったことは重々理解しますが、他民族に日本仕様を強いたのは大きな間違いであり、後々大きな代償を支払うはめとなりました。1909=明治43年伊藤博文がハルピン駅頭で安重根に暗殺された時点で、あっさり撤退しておくべきでした。

 

 

オリジナル勉強風呂Gu 第461回 2022.6/22

百人一首No.39. 参議等:浅芽生(あさじふ)の小野のしのぶれど あまりてなどか人の恋しき

浅芽の生えている小野の篠原のしののように、忍び続けて我慢してはきたけれども、どうしてあの人のことがこんなにも恋しいのだろうか。

N君:「篠原」までが序詞で次の「忍ぶれど」を導出しています。最近分かってきました。序詞を訳す時は「~のように」とか「~ではないが」とするとつながります。

I have managed to refrain from expressing my love for her as if slender bamboos growing in Asaji plants would put up with rustling in a slight autumn wind.  Why should I love her so eagerly ?

S先生:N君の作文では「秋風に揺れてカサコソ鳴るのを我慢する竹」と「彼女への告白をグッと我慢する作者」とを同じ性質のものとして考えているわけですが、これはなかなか凝った趣向でした。私の作文では逆に対立するものとして考えてみました。

I have been concealing my love for her unlike small bamboos easy to rustle even in a light wind.  What on earth makes me long for her like this ?

MP氏:Though I scarcely show my secret feelings like those few reeds sprouting unnoticed in low bamboo, they are too much for me to hide.  Why do I love you so ?

N君:MP氏の作品の第1文を解析してみます。主節の they は my secret feelings でしょう。「背の低い竹の野にひっそりと芽を出した数本の雑草にも似て、私は自分の気持ちをほとんど外に出すことはないのに、この気持ちは溢れすぎて隠せない」というふうになると思います。うまく作るものだと感心します。

K先輩:忍ぶ恋。ひたすら耐える。「ひたすら」を「只管」と書きます。只管打坐(しかんたざ)というのは「ひたすら座禅を組む」という意味で、禅宗の一つ曹洞宗における基本理念です。日本における仏教の流れをおおまかに整理しておきましょう。538に百済聖明王から欽明天皇へ仏像と経論が伝えられたのち、仏教受容に関して賛成の蘇我稲目と反対の物部尾輿(もののべのおこし)との間で論争がありましたが、結局は受容する方向となり、はじめのうちは飛鳥寺の大仏、法隆寺釈迦三尊像百済観音が作られていました。いづれも大陸風の風貌です。私も見に行きましたが3体ともに「こりゃあ日本のものではないな」と思いました。法隆寺釈迦三尊像のみ作者が鞍作鳥(くらつくりのとり)=止利仏師 とわかっています。その光背に銘文があって623年に止利仏師が作ったと記されています。飛鳥大仏や法隆寺百済観音はおそらく渡来人が作ったのでしょう。奈良時代に入って743東大寺盧舎那仏開眼供養が行われるほどに仏教は隆盛となり、平城京には南都六宗と呼ばれる6つの宗派が誕生します。後の世に京都から見て奈良が南にあったので南都、そこの6宗派だから南都六宗です。ひとつづつ覚えようとしてもすぐ忘れるのでこれ以上追及しませんが、とにかく「南都六宗は学問のための仏教」でした。内に籠ってお勉強するばかりで民衆の苦しみに応えることができず、700年代後半には道鏡のように政治に介入する者も現れました。南都六宗は「釈迦の教えを経典に基づいて学び修行して悟りの境地へ達しよう」としていたわけですが、このような教えを顕教といって「まともなやり方」みたいな意味です。794平安京に移ってから弘仁貞観期に台頭したのが「秘密の呪文を通して仏様と交流しよう」というやり方=密教 で、最澄天台宗空海真言宗 がこれに当たります。護摩(ごま)を焚いて経を唱える加持祈祷は密教の専売特許です。顕教に比べて密教は少しヤバイ感じもしますね。しかし顕教にしろ密教にしろ、苦労して経典を解読したり、呪文をマスターしたり、という「並々ならぬ修行」が必要で、そのような修行の果てに悟りの境地が待っている、という特徴がありました。しかし貴族も含めた一般庶民にはそんな修行は無理ですし、そうこうしているうちに1052末法の世 が近づいて来ます。900年代に入ってからは「どうやったら極楽往生できるのか」が人々の関心事となり、源信空也がそれに答えようとして浄土教という考え方を広めようとします。これをさらに進めたのが鎌倉新仏教(浄土宗・浄土真宗時宗日蓮宗臨済宗曹洞宗)です。特に浄土宗・浄土真宗は民衆に対して「いろいろ難しい修行なんかしなくていいから唯々『南無阿弥陀仏』と唱えさえすればいいんだよ」と言いました。浄土真宗では肉食・女犯(にょぼん)もOKなのですから凄い。坊さんが嫁を貰うなどということは、それまでは考えられないことだったのです。浄土真宗の教科書「歎異抄(たんにしょう)」には「善人猶(なほ)もて往生す況(いはん)や悪人をや」=「善人が極楽に行くのだからなおさら悪人は極楽へ行ける(悪人正機説)」なんて書かれていて、ナンデモアリの様相を呈しています。つまり顕教密教を一生懸命やっていた人達から見れば、鎌倉新仏教は「なんでもアリのエエカゲンなもの」に見えたでしょう。当然そこには摩擦が生じます。鳥獣戯画で有名な洛北高山寺にいた顕教派の明恵上人(みょうえしょうにん)高弁は「催邪輪」を著して、浄土宗開祖法然の書いた「選択(せんじゃく)本願念仏集」に反論を唱えました。「仏教というのはそんな簡単なもんじゃないぞ、ちゃんと修行がいるんだぞ」という主張です。当然の主張だと思います。現代の我々は「オウム真理教は変だな」と感じますが、明恵上人も全く同様の思いを浄土宗・浄土真宗に対して持っていたでしょう。鎌倉時代から800年経過した現在は浄土宗・浄土真宗が普通になっているので、ひょっとすると西暦3000年ころにオウム真理教が普通になっているかもしれないですね。いずれにしても「人は面倒が嫌い」なので、一旦楽なことを覚えたらもう元には戻れません。令和の日本では空調もお風呂もスイッチひとつで済みますが、これを団扇(うちわ)や火鉢やマキに戻せと言われても絶対無理です。民衆にとっての宗教もこれと同じで、軽いもの・簡便なもの・耳障りの良いもの へと変わっていくのは仕方のないことなのでしょう。その大きな転換期が鎌倉時代初頭にやってきた、というわけです。催邪輪のほかにもうひとつ諍(いさか)いを挙げるとすれば「松虫鈴虫事件」でしょうか。1221承久の乱より少し前のこと。後鳥羽上皇が吉野熊野に詣でている間に二人の女御(にょご、側室みたいなもの)=松虫19歳+鈴虫17歳 が上皇に無断で「流行りの浄土宗に傾倒してしまい勝手に尼さんになってしまった」という大事件がありました。京都市の北東にある哲学の道のなかほどに安楽寺という小さなお寺がありますが、ここの坊主が松虫鈴虫をそそのかして出家させた、ということで上皇は烈火の如くお怒りになって、その坊主を死罪とし、その親方筋にあたる法然を土佐に追放しました。親鸞も越後へ追放されています。伝統的な仏教と新しい仏教とが激しくバトルを繰り広げています。その後の仏教は、各宗派ごとに偉い人 ー たとえば一休宗純蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)・蓮如(れんにょ)・良寛など ー が出たりしながら勢力を拡大していった、という構図です。江戸時代の初めに隠元黄檗宗という新しい禅を京都万福寺で始めました。万福寺に行ってみるとまるで中国に居るかのような錯覚を起こすくらい「日本ではない」感じがします。幕末の頃に天理教(中山ミキ)、黒住教(黒住宗忠)、金光教(川手文治郎)、が始まりましたが、これらは仏教ではなく、教派神道と呼ばれる神道の一種です。中山ミキは今の天理市出身ですが、黒住宗忠は備前川手文治郎は備中でいづれ岡山県というのは偶然でしょうか。令和の現在でも奈良県天理市に行くと天理教の施設・建物が林立していてビックリします。京都市北東の吉田山に黒住教のおおもとの立派な神社があって、春の早朝に散歩すると鶯の鳴き声がきれいです。金光教支部も日本中にありますよね。明治維新で王政復古したために神道の力が一時的に強くなり教派神道も勢力を拡大したので現在のような隆盛が見られるのでしょう。神と仏は平城京の昔から仲良く神仏習合してきたのに、明治に入って神仏分離令が出されて神をupさせ仏をdown させる風潮=廃仏毀釈によって、一時的にお寺の仏像が壊されたことがありましたが、浄土真宗西本願寺島地黙雷らの努力により仏教も立ち直りを見せ、令和の現在につながっている、という次第です。色々ありましたが「神様仏様関連は無税」というのがいいですよね。経済的に豊かなのでしょう。その証拠に、各教団の幹部連中はでっぷり肥えている人が多い、と私は思います。

 

 

オリジナル勉強風呂Gu 第460回 2022.6/21

百人一首No.38. 右近:忘らるる身をば思はず誓ひてし 人の命の惜しくもあるかな

忘れ去られる私自身のことは何とも思わない。ただ「いつまでも愛しているよ」と神かけて私に誓ったあの人が、その誓いを破ったことで神罰を受けて命を落とすことになろうとは。私はその事が惜しまれてならないのです。

N君:この歌はパッと読んでも意味が全然分かりません。第1に、「身」というのが我が身のことだとは知りませんでした。第2に、「誓いてし」の主語が作者のかつての恋人だったとは知りませんでした。第3に、「人」が作者のかつての恋人だったとはびっくりです。第4に、「惜し」と思っているのが作者自身であったとは分かりませんでした。とにかく何も分かりませんでした。分からない理由は「主語が省略されるから」です。アッと驚くようなありえない省略が古文にはあるのだ、という現実をこの歌は示してくれました。

Although he swore to love me forever, it was a lie.  I do not mind the sad outcome of our relationship.  I am just concerned about his serious disease, which the Devine has given him as a punishment because of his faithlessness.

S先生:N君の作文は学生らしくキッチリ書けていると思います。それより私が気になったのは右近という女性の優しさです。普通なら不倫した男の不幸に対して「いい気味」と意地悪く思うところを、逆に心配してあげているのですから凄いです。

Never do I mind being forgotten by him.  But it is a great pity that my sweetheart who vowed to God that he would love me forever is going to pass away.

MP氏:Though you have forgotten about us, I do not think of myself.  But how I fear for you, who swore to the gods of your undying love for me.

N君:MP氏の第2文は how のすぐ後に seriously を補って文末に!を置けば僕にも理解しやすくなると思いました。それと、相手の男を he ではなくて you で表しているために、より臨場感が出た気がします。fear for~「~の安否を気遣う」。

K先輩:S先生がおっしゃっていたように、普通の女性は自分を裏切った男を恨むものですが、本歌作者の右近はそんな男の身に神罰が下るんじゃないかと逆に心配してあげているのですから、これはもう女性として一枚上手です。右近は村上天皇の時代(950頃)に宮廷に仕えた女流歌人ですが、源氏物語に出てくる夕顔という身分不詳の薄幸美少女に侍女がいて、この侍女もたしか右近という名前でした。光源氏が夕顔を可愛がり過ぎたために、六条御息所(ろくじょうみやすどころ)の生霊(いきりょう)が夕顔を呪い殺してしまいました。女の jealousy は男ではなくて女へ向かうのですね。これで思い出すのが、鎌倉時代鴨長明が書いた説話「発心集」に出てくる「みなそこ」の話です。物乞いをしながら生きる老婆が重い口を開いて自らの身の上を語り始めます。「もとは四条の宮のはしたもの、みなそこ、となむいいける。男の受領(ずりょう)となりて下りける時、具して下らんといざなひければ、宮にもいとま申し、候ふ人々にも其の由聞こえて(申し上げて)心ばかり出で立つ」というわけで、ウキウキ気分で待っていたのです。ところが男は迎えにも来ず奥さんと一緒にサッサと赴任してしまいました。浮気な男のほんの冗談を本気にして裏切られたのです。職場の同僚や御主人には既にお別れの挨拶を済ませている手前、おめおめと職場復帰することもできません。このあたりが女性の見栄っ張りなところだと思うのです。私だったらテヘッとか言って職場に戻るけどね。はじめのうちはいろいろ噂の種にされて辛いかもしれないが「人の噂も七十五日」ともいいますし、そのうちもとの状態に戻ると思うのです。結局、みなそこさんは洛北の貴船神社にお百度参りをして、男ではなくて奥さんのほうを呪い殺したというのですからビックリです。奥さんがお風呂に入っている時に天井から「化け物みたいな大足」が降りてきて、それを見た奥さんは熱にうなされて死んだそうです。恨みが男でなくて奥さんへ向かう、というその発想が理解不能です。女性は謎ですな。